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すべてはジーコから始まった。 衝撃のJリーグ開幕戦ハットトリック

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 国内タイトル(Jリーグ、Jリーグ杯、天皇杯)獲得19回、アジアチャンピオンズリーグ優勝1回。合計20冠という数字は群を抜いている。その土台を作ったのがジーコだった。

 Jリーグが開幕する2年前の1991年。ジーコは当時、日本リーグ2部に所属していた鹿島の前身、住友金属に入団した。その2年前の1989年に一度現役を引退しており、ブラジルでスポーツ担当大臣を務めていた。そんなジーコがなぜ2部でプレーするために日本までやってきたのか。当時、こんなことを言っていた。

「プロ化を目指す日本に何が欠けているのか、何を補ったらいいのか、プロ化のお手伝いをしようと思った」

 さらにこう続けた。

「日本は新しいマーケットとして全世界から注目されている。このまま日本のサッカーが成長し、世界から注目されるリーグになった時、みなさんは気づくはずだ。ジーコが日本に来た理由はこれだったのか、と」

ジーコが最初に手をつけたのは、選手にプロ意識を植え付けることだった。トレーニングでは、ボールを止めて、蹴る、また止める、蹴る。それを繰り返し基本練習の大切さを説いた。

 ロッカールームに選手のシューズが散乱していれば、「こんな汚いところではくつろげない。明日もこんな状態だったら全部捨てる」と言って自分のシューズの手入れを始め、それを見た選手たちがロッカールーム内の片づけを始めたという。寮生活をする選手がコンビニなどでお菓子を買う姿を見れば、「あれはどういうことだ。プロ選手の体づくりにお菓子は必要ない」と、会社に怒鳴り込んだ。

 食事も睡眠も仕事のひとつであり、試合で最高のパフォーマンスを発揮するために必要なことだということを伝えた。

 プロ意識はフロントにも求めた。初めて住友金属の練習場を訪れたジーコは、土のグラウンドを見て、「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」と呟いた。フィジカルトレーニングが行なえる施設の必要性や、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備を説き、練習後に選手が風邪をひかないよう、練習場の近くにシャワールームを作らせた。また、選手が100%サッカーに集中するために、ホペイロを雇うことも要求した。

今となってはJリーグの常識になっていることだが、そうやって鹿島は一歩、また一歩とプロのクラブへと成長していった。フロントがハード面を整備し、チームスタッフが練習、試合に向けて準備する。そして選手は試合で結果を出す。それぞれの仕事をお互いが尊重することで、チームに結束力と一体感が生まれる。そんな関係を大事にしていた。

 プロサッカー選手としての勝利に対する執着心は、言葉だけではなくプレーで見せつけた。衝撃だったのは1993年5月16日、40歳で迎えた鹿島スタジアムでのJリーグ開幕戦だ。

 相手はイングランドの世界的ストライカー、ガリー・リネカー率いる名古屋グランパスエイト。メディアは"ジーコVSリネカー夢の対決"と煽った。しかし、試合は予想外の展開になり、ジーコの独り舞台となった。

 前半25分、強烈なミドルシュートで先制点を決めると、前半30分にも芸術的なフリーキックで2点目。後半18分にもアルシンドの右からのクロスをボレーで合わせ、Jリーグ初のハットトリックを達成した。試合は鹿島が5-0で快勝。リネカーを完全にわき役へ追いやってしまった。

この年、ジーコは例年よりも2カ月早い1月中旬に来日。開幕戦に向けてコンディションを整えてきた。日本サッカー界にとって歴史的な日のために準備してきた結果である。

 鹿島はその勢いのまま、第1ステージ優勝を飾った。チャンピオンシップではヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)に敗れたものの、人口わずか4万5000人(当時)の小さな街をサッカータウンに変えたのは、間違いなくジーコだった。

 ジーコがJリーグでプレーしたのは、この年と翌年の6月までの1シーズン半だけだった。23試合出場、14得点。この記録を上回る外国人選手はたくさんいる。しかし、住友金属時代からクラブに伝え、残してきたものの大きさは計り知れないものがある。

 27年経って、鹿島は「常勝軍団」と呼ばれ、選手たちも「鹿島でプレーすることはタイトルを獲ること」と言い切る。今もなおジーコイズムが受け継がれている証拠だろう。

 Jリーグが成功した要因のひとつに、小さな街に誕生した鹿島アントラーズというクラブの存在があるのは事実だ。リーグ最強クラブに成長したその歴史は、プロサッカークラブを作るためのモデルにもなるだろう。その土台づくりに貢献したジーコは、今も鹿島のテクニカルディレクターとしてチームを支えている。

渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya

この記事に対する反応

 

ジーコが来なければ、鹿島もフリューゲルスみたいに消滅していたかも。かつては勝負強さが目立った鹿島も近年は勝負所で勝てないチームになってきた。今一度、ジーコスピリッツの復活を望みます。

 

鹿島アントラーズにとってはジーコはレジェンド以上の存在。そして成功に導いた伝道師。
今は曽ヶ端選手、遠藤選手、内田選手がリーダーとして、居るし、クラブの生え抜き選手として、伝統を受け継いでいる。
ブレないフロント。これが鹿島の強みだね。
サポーターやってて良かった!

 

良い記事だね。現役ジーコはカシマで4,5回見たかな。左サイドでプラプラしているなあ、と思っていると、いつのまにかゴール前に走りこんでドンピシャでシュート、の感じでした。天皇杯ソニー仙台戦での背面オーバーシュートを生で見れたことは一生の思い出です。

 

細かいことだが、ジーコの3点目は、右からではなく左からのクロス。
あの試合は、まだJリーグって何だ?と思っていたオレに物凄く強烈なインパクトを与えてくれて、サッカーの世界に引き込んでくれたエポックメーキングな試合なので、ゼッタイに忘れられない。
そうか、鹿サポになって27年目になるのか。

 

この試合ゴール裏で観てました。
目の前でジーコが三点目を叩き込んだのを見てメチャクチャ興奮したのを覚えています。
その後、「Jリーグのお荷物」になると思われてたアントラーズが第1S優勝…!
それからアントラーズが刻んだ歴史はご存知の通り。
ジーコが神様たる由縁ですね。

 

ジーコがいなければ、1998年のW杯には出れてない。
2002年も韓国単独開催だったかもしれない。
それくらい、ジーコが日本に来てくれたことは大きい。

 

全くその通りです!ジーコは代表監督になる前に鹿島で全身全霊でエネルギーを使い果たしてしまったくらい迫力あった。鹿サポとしてはあの当時は面白くてどうしょうもなかった!

 

ジーコは鹿島だけでなく、Jリーグの発展にも大きく貢献してくれている。
長生きして、日本サッカーを見守ってほしい

 

当時はリーグのレベルが低かったが40歳でハットトリックは凄すぎる。最高齢ハットトリックは未だに破られてない。

 

ジーコがハットトリックを決めたJ元年の鹿島開幕戦、この試合はチケットが余っていたはずなのに観戦しなかった。観戦に行かなかったのは人生においての後悔のひとつ。

 

>「このまま日本のサッカーが成長し、世界から注目されるリーグになった時、みなさんは気づくはずだ。ジーコが日本に来た理由はこれだったのか、と」
あの当時、そこまで見抜いていたジーコは、やはり凄いと今更ながら思う。

 

ジーコはプロ選手としてのメンタリティを鹿島の選手達に植え付けてくれた。

 

自分のサッカー人生はジーコのお陰で始まった
あの日のハットトリックは今でも瞼に焼き付いている

 

鹿島は特別なチームだよな。この記事読んで、改めてそう思う。

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