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ストイコビッチ。日本サッカーの概念を超越した選手。

記事の内容

 東京~名古屋間は、新幹線でおよそ2時間。お金もそれなりにかかる。試合の開始時間によっては、宿泊する必要も生まれる。東京在住者にとって、名古屋行きはまさに旅行だ。

 首都圏のクラブが名古屋グランパスとアウェー戦を戦えば、そのクラブの熱心なサポーターは名古屋まで駆けつけるだろうが、そうでなければ、名古屋周辺に縁もゆかりもないファンが、名古屋まで出かけることはまずないだろう。

 だが、そんなファンがかつては存在した。瑞穂陸上競技場のスタンドに目をやれば、どちらのファンでもなさそうなファンの姿が目に留まった。

 ドラガン・ストイコビッチがいた時代だ。

 監督がアーセン・ベンゲルだった時代は、とくに多かった気がする。筆者もよく、現地に行くことありきで、仕事の算段を立てたものだった。

 現在のヴィッセル神戸を見るようだ。神戸のファンでも、相手側のファンでもない第3者的な姿が、スタジアムのあちらこちらで目に留まる。とりわけ、神戸のアウェー戦ではその姿が多く、どのクラブも神戸戦はアンドレス・イニエスタ効果で、観衆増の恩恵にあずかっている状態だ。

ストイコビッチが名古屋にやってきたのは、1994年。Jリーグが開幕したその翌年だ。今から、26年前の日本。現在と決定的に違っていた点は、海外サッカーへの関心、その情報の乏しさだ。

 1994年と言えば、アメリカW杯が開催された年と重なる。日本は、その前の年に行なわれたアジア最終予選で敗れ、W杯初出場を逃していた。

 世界への扉は半開きの状態で、欧州のサッカーの情報にはまだ疎(うと)かった。1992-1993シーズンから、チャンピオンズカップ(CC)をチャンピオンズリーグ(CL)に発展させるなど、隆盛期に入っていた欧州サッカーの情報なども、日本まで満足に届いていなかったのだ。

 そうした状況のなか、海の向こうで、ストイコビッチはイビツァ・オシム監督率いるユーゴスラビア代表として、1990年イタリアW杯に出場。10番を背負って、全5試合スタメン出場した。準々決勝のアルゼンチンでPK戦の末に敗れたが、その名前を広く知らしめることになった。筆者が、ストイコビッチのプレーを初めて直に見たのもこの時だった。

 しかし、それから名古屋入りするまでの4年間、ストイコビッチの名前を聞くことは何度もなかった。所属チーム(マルセイユ)はこの間、CCとCLのファイナリストになっているが、ストイコビッチが出場したのは、CCの時の残り数分間のみ。膝の怪我に苦しんでいた。

 ユーゴスラビア紛争も、そのサッカー人生に暗い影を落としていた。1992年欧州選手権(スウェーデン大会)予選を勝ち抜き、ユーゴスラビア代表は本大会に向けて出発した。ところが、ユーゴスラビアは内戦の制裁措置として、出場不可とされたのだ。ストイコビッチは表舞台に立つことなく、自国に引き返すことを余儀なくされた。

こうしたニュースは、今なら間髪なく伝わってくるだろうが、当時は違った。新聞の片隅か、月刊のサッカー専門誌に載る程度の、よほど目を凝らさなければ見逃しそうな情報だった。

 ストイコビッチは、言ってみれば、1990年イタリアW杯から情報が更新されずにいた、遠い場所に位置する選手だった。それだけに、名古屋入りの報を聞いて驚かされたものだ。

 ストイコビッチが来日した1994年当時、Jリーグにはそれ以上に、世界的に名の知れた選手たちがいた。ジーコ、レオナルド、ピエール・リトバルスキー、カレッカ、ラモン・ディアス......。イニエスタひとりが人気を集める現在とは、状況は大きく違っていた。

 ただし、ストイコビッチは29歳で来日。Jリーグにやってくる外国人選手が、かつての名手、盛りを過ぎたベテランが多くを占めるなかで、その若々しさはひときわ新鮮だった。誰よりも自由奔放。プレーがやんちゃで弾けていた。

 それが、ベンゲル監督(1995年~1996年)の目指すサッカーにピタリとはまっていたことも、筆者の目には新鮮に映った。中盤フラット型4-4-2の2トップ。正確には1トップ(小倉隆史か森山泰行)の脇になる。限りなく4-2-3-1に近い4-4-2だった。

 当時の日本では、4-4-2と言えば、ブラジル式の中盤ボックス型しか存在しない時代だった。時の日本代表=加茂(周)ジャパンも、その布陣を定番としていた。攻撃的MFの前に、2トップがいるサッカーだ。

 同システムでは、攻撃的MFと2トップを分けて考えることを常識としたが、ストイコビッチが構えたのは、その中間だった。攻撃的MF兼ストライカー。もっとわかりやすく言えば、アタッカーである。

 ストイコビッチは、単なる魅力的な選手には止まらない、従来の日本サッカーの概念に存在しなかった画期的な選手と言えた。

ベンゲルサッカーしかり。この時の名古屋は、当時の日本サッカーの10年先をいく、いや、今振り返っても、最新式に見えるスタイルだった。その中にストイコビッチは綺麗に収まっていた。

 つまり、サッカーそのものに華があった。つい観戦に出かけたくなるサッカーをしていたのだ。

 筆者は、その勢いで欧州に渡り、ストイコビッチ率いるユーゴスラビア代表の試合も観戦に出かけた。ユーゴスラビアに対する制裁措置は、1998年フランスW杯予選から解除されていた。

 とはいえ、続くユーロ2000(オランダ、ベルギー共催)予選の頃は、まだコソボでは紛争が続いていた。抽選の悪戯か、ユーゴスラビアは紛争の末に独立したクロアチアと同じ組に振り分けられた。

 筆者は好奇心を募らせ、ザグレブで行なわれたクロアチアホームの一戦に出かけていったのだが、あろうことか試合前日、NATO(北大西洋条約機構)軍がユーゴスラビアに向けて空爆を始めたのだ。

 試合は中止となり、ザグレブの空港も封鎖された。バスで隣国スロベニアに渡り、緊張した区域から遠ざかることができたが、このストイコビッチをめぐる旅は、なんとも言えぬ体験として記憶されている。

 そうした体験も含めて、Jリーグにやってきた外国人選手の中で、ストイコビッチほど「その行く先々を追いかけたい」と思うような選手はいなかった――。

杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki

 

この記事に対する反応

 

ピクシーのプレーや熱さが好きだった。
華麗なパスや、主審へのレッドカードとか、ギャップすごかったしね。
監督としてやってた時も、ライン際に来たボールを怒って蹴り上げてゴールに入れて退場になってました。
とても記憶に残る選手です。

 

ボックスタイプで貴重なゴールも決めてたデュリックスも良い選手だった。
ピクシーを中心にバックアップのパシ、守備の要トーレスと外国籍選手の質が本当に高かった。
彼らの存在が岡山、平野、福田といった当時の若手選手のレベルも引き上げてくれた要因だと思う。

 

日本のサッカー界において彼ほど、ファンタジスタと言う言葉が似合うプレーヤーはいないと思う。
当時、サッカーに興味があまり興味が持てなかったが彼のプレーを見るようになり、
サッカーが面白いと感じるようになった。

言い方が悪いが、敵陣の中でアマチュア対プロ一人と言ってもいいくらいボールを支配し、
華麗で魔法がかかったようなボールさばき、本当にすごいものがあった。

引退後も監督として、時には退場になるようなパフォーマンスをするが誰も憎めない。
スターがいたことが嬉しかったりもしました。
再び名古屋や日本サッカー界で活躍を願うばかりです。

 

魅せるプレーも凄かったが、止める・蹴るの基本技術が恐しく高かった。
あの美しいロングパスの軌道といったらため息しか出なかったな。

細身でも体幹が強く、あの深い切り返しは分かっていても誰も止められなかった。
怪我前の90年前後の全盛期はスピードもあり、プレーのキレ具合は化け物クラス。
95年は全盛期を彷彿させるプレーが見れて幸せだった。

 

ストイコビッチはバルセロナのカンテラのような超高等教育の中では生まれないタイプの天才だった。
ジダンもそうだけど他人の手が入っていない感じの上手さで育成が充実した現代では
もうこういう選手が現れることはほとんどないと思う

 

ピクシーがjに来るとわかったとき飛び上がった
ジーコよりびっくりした
ピクシーの動き一つ一つから目が放せなかった
楽しかったなー
監督の時も誰よりも彼への声援が凄かった
もう一度見たいなー
今度は日本代表監督で

 

当時ピクシーより、日本でも超有名な選手が何人もいたが、彼ほどのキレを持っていた選手はほぼいなかった。
俊足なわけではないが、トラップからのスピードがとにかく速い。
かと思いきや急激に切り返して別の方向へ。必死で食らいついたDFは慣性で2,3歩遠ざかりまんまとフリー。

 

私の大好きな選手、今思うと紛争がなければもっと世界の注目を集めていた選手だったでしょう。
代表監督もやってほしいですけど、まあ疑惑もあるから難しいんですかね。

 

私にとってのファーストファンタジスタ。
エグさのある深い切り返しに、対峙するDFは分かっていても引っかかる。
やられる方は屈辱だろうが、ファンにとっては痛快だ。
彼のファンタジーとパッションを感じるプレイは、
晩年になっても輝きが失われる事なくJのみならずワールドカップでも活躍。

彼のいるセルビア代表は日本代表と同じくらい好きでした。

 

1994年は鹿島にレオナルドが浦和にはブッフバルトが入団した年。
ストイコビッチ加入、ベンゲル監督招聘で名古屋は一気に優勝争いできるチームになった。
まさか2001年ファーストステージまで名古屋にずっといてくれるなんてこのときは考えもしなかったな。

 

テクニック、魅せるプレーはもちろん、大舞台にめちゃくちゃ強かった印象ある。
天皇杯決勝もそうだし、引退試合も、オールスターでも。代表で言えば98のドイツ戦なんかも。
注目が集まる試合の中で最も注目すべき選手の一人として紹介され、それに確実に答えてくれる。頼もしすぎる存在。

 

本来絶対日本に来てプレーする選手では無かった。
ベンゲルの監督の素養を作ったのもある意味ストイコビッチのおかげだと思う。
全てがレベルが違う選手だった。自分の中でサッカー歴代NO1選手を選べと言われたら
ストイコビッチとレコバの2人だと思っている。
1人に絞れない(笑)。バロンドールを取る選手が1番とは思わない。

 

記事にあるどちらのファンでもなく見に行った者です。
ピクシーのプレーが見たくて、でその華麗なサッカーに魅了されました。今でも自分のアイドルです。
カッコ良かった。

 

ベンゲル監督の戦術も相まって、当時の名古屋は恐ろしく楽しいチームだった。
直前までレッズと最下位争いをしていたとは思えないくらい、
一気にモダンで強いチームに変わったもの。

監督でこれほど変わるのか、と受けた衝撃は忘れられない。
でもストイコビッチが居たからこそ出来た部分も大きい。
それくらい当時のJの中では頭抜けてたと思う。

 

ベンゲル監督の時の天皇杯準決勝アントラーズ戦決勝サンフレッチェ戦 行きました
グランパスとして最初のタイトルでした。
その後、引退までピクシーに魅了され続けてました。

 

相手チームはピクシーからボールを奪えなかったよなぁ。
2人3人で取りに行ってみんな置き去りになるシーンよく有った。
今のJリーグでやっても彼なら同じようにやるだろうな。
足にボールが吸い付くとは 正にあのことだから。

 

当時はブラジルサッカーの影響が強くて、サイド攻撃はSBのオーバーラップが主流だった中、
フラットな中盤で平野、岡山の両サイドハーフとフリーマンのストイコビッチが躍動するサッカーは異質だが美しかった。

他にも小倉、森山、浅野、デュリックス、パシ、トーレス、大岩、小川、飯島…
他サポでも、当時の名古屋の主力選手がすらすら名前が出てくるくらいインパクトがあった

 

あれだけキック精度が高いとわかってても面白いようにキックフェイントが決まりディフェンダーが転ばされる。
またこんな選手をJリーグで見てみたい。

 

同じ時代に生きていて良かった。数々の華麗なプレーに魅了されまくりました。
様々なグッズ購入に小遣いを遣い果したのが懐かしい。

 

問答無用で『見たい!』と思わせてくれる本物のプロでした。ただ上手いだけではなく、華のある選手でしたね。

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